NOUVELLE CRITIQUE

―― 新批評誌 ――

 

 

 

Aesthetica OLIVIA 編集部

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                                                                                                                  執筆者 M.I.

                                                                                201028

 

阪神タイガース ――  (1)宜野座キャンプの感想

                                      (2)ファンへの要望

(1)

              スカパーTVで観た宜野座キャンプの感想を述べたい。

              解説者の小山正明氏は、1962年、阪神優勝時のエースの一人。さすがに、投手たちを観る目は非常にしっかりしている。投球動作に移る直前の、軸足(左投手の左足、右投手の右足)で直立した姿勢とバランスについて、的確な解説を行っていた。この軸足の上に垂直に伸びたライン、加えて背骨から首にかけてのラインである。この小山氏の解説に続けるとすれば、このラインを保ちつつ、軸足を緩めて、投球が開始されるバランスは、ステッピング・フットの位置や大きさにも関係するが、何よりも大事なことは、小数点以下の秒数で保つ軸足の安定度にある。この安定性は、ランニング等の基本的な鍛錬によって創り出されるものである。
        そして、ほんの僅かの安定性の乱れは、ボールがリリースする瞬間では左右あるいは高低の目に見えない僅差が、ホーム・プレート上では
3センチから10センチの誤差を生ずる。空振りあるいは凡打で打ち取るはずの投手の意図は、ヒットあるいは長打という結果で覆される。

              しかし、小山氏のバッターについての解説は、残念なことにまちがっている。これは、小山氏に限ったことではない。日本では、何に於いてもそうであるが、数ある視点の一つが時期的に共感を呼ぶ度合いが大きい時、必ずと言っていい程、それは流行現象を生み、たとえば野球のように日本ではそれなりの歴史が長い場合、いつのまにか、それは恰も最重要の基本であるかのように喧伝される。サッカーのように、歴史の浅いスポーツでは、未だ、そうした流行現象は生まれていない。
         おそらく解説者の小山氏は、目下流行中の一つの視点を強調したのかもしれない。小山氏は、新外人・マートン選手の打撃練習を見て、「反対方向打ち」の少なさを批判していた。だが、その日はフリー・バッティング練習が始まったばかりの時期である。マートン選手としては、本国で教えられた基本を忠実に開始したに過ぎないのだ。つまり、「しっかり打ち返す」打法を、まず十分にこなさなければならない。右バッターとしては、センターラインから左方向への打球である。結果として、柵越えの頻発が驚きをもって報じられていたが、しかし、私が彼を期待できる選手と考えた要素は、バックスイングからミートへ至る無駄の無い腰回転と、スイング・スピードの二点である。若き日の真弓明信選手を思わせる。

              打撃陣に、というより、新井選手に私はいくばくかの不安を感じる。昨シーズン後半に見せた「打ち返し打法」の練習が、このキャンプでは見ることができなかった。彼は、昨年、一シーズンを通して不調に喘いだが、それでも後半に至り、左方向打ちの復活によって(安打の殆ど全てが左方向であった)最悪の状態を脱したはずである。しかし、今シーズンのキャンプでは、相変わらず「反対方向打ち」をこなす為の苦心に終始していた。今は、そんなことよりも、もっと、きちんと打ち返すことを身に着けなければならないはずだ。彼は、基本練習の後にしなければならない「逆方向打ち」を基本練習(打ち返し打法)の前に実験しているのかもしれない。あるいは、一昨年夏以降の故障が完全に治っていないのかもしれない。

ところで、二人の選手が阪神を去った。シーズンを通して「打ち返し打法」が殆どできず、常に「反対方向打ち」ばかりしていた、今岡、赤星の両選手である。この二人は、首から腰にかけて、何か欠陥があるに違いないと私は考えた。
      「打ち返し打法」に特有の、鋭い腰の回転、だが、静止に近い頭部の状態・・・・・・、これは「反対方向打ち」に比べて数倍のエネルギーを要するものである。ここにこそ、打撃の基本は存在する。近代化された昨今の技術レベルでは、広角打法を十全にこなせる打者が、打撃部門のタイトルを獲得している。ランディ・バースや落合博満のように、もともとホームラン・バッターとしての素質を持った選手なら当然であるが、山本浩二や掛布雅之のような、元来はホームラン・バッターでない打者がホームラン王の栄誉を複数回、獲得している例に、私は技術近代化の典型を認める。
      次に、「打ち返し打法」のみで、「反対方向打ち」をマスターしていない選手、たとえば王貞治や田淵幸一のようなホームラン・バッターが、タイトルをとった例は幾つかある。しかし、「反対方向打ち」のみで、「打ち返し打法」ができない選手は、タイトルをとることが不可能なばかりか、チームにおける中心的な働きさえできないのである。              赤星選手は首の故障で引退した。今岡選手はロッテ球団に採用された。もし、故障が癒えているならば、彼はかつて首位打者、打点王に輝いた年の「打ち返し打法」を再現してくれるだろう。新天地での活躍を期待したい。


              さて、先発投手陣だが、岩田、能見、安藤、久保、下柳。
              このうち、岩田は、WBC参加の殆どの選手と同様に、WBC病で昨シーズンの前半を棒に振っている。しかし今年は、まちがいなく、エースの中の軸ともなるべき存在である。あとの4人は、ローテーション・ピッチャーとしての責任をほぼ果している。

    福原、金村、上園、杉山、久保田、江草
             彼等は、過去において、二桁勝利あるいはそれに近い実績を持っている。久保田はリリーフとしての高度な実績を持っている。私はかねがね、江草を先発陣に使うべきだとの主張を持っているが、これだけ先発陣が揃えば、その可能性は無いだろう。23年前の先発陣不足の時期に、江草あるいは渡辺を先発陣に使うべきだったのである。これに新人の中から、一人でも二人でも活躍する投手が出るならば、その豪華さは12球団随一となる。 ところで、今年入団の新人達に先がけて、二年目の蕭一傑が、先発陣の中へ割り込んでくる可能性は大と思われる。しかし、こういう駒揃えをするならば、中日ドラゴンズは阪神タイガースに決して引けをとらない。重要なことは、この豊富な持ち駒の何人が、かつての実績どおり、あるいはそれ以上の活躍をするか、ということである。私は、先発投手陣において、阪神タイガースの方が中日ドラゴンズを上回ることはまちがいないと予想している。

              ‘08年、巨人と優勝争いをしていたとはいえ、それはただの外見に過ぎなかった。終盤の阪神は殆ど瀕死の状態だった。この衰弱ぶりを見て、私は、来期(’09年)の予想をBクラスとした。この転落を免れるためには、そして優勝を争う安定した力を培うためには、岡田監督と二人のコーチ(広沢、久保)の更迭が必要だろうと記述した。

              以下のリンクを参照

              ‘08年プロ野球ペナントレースの行方

 

              この’08年、多くの解説者たちが口を揃えて「阪神タイガースの層の厚さ」を述べていた。たしかに、ペナントレース・スタート時点から中盤にかけて、打撃陣の層は、それなりに厚かったと言えよう。しかし、この時期、代打として3割を常に維持していた葛城、桧山を殆ど用いず、1割バッターの二人、今岡、フォード、それに2割そこそこの赤星を、常時、レギュラーとして使い続け、時は流れ、やがて終盤近くなって気がついてみれば、どのチームよりも層の薄いチームに変化してしまっていた。
              一方、JFKの他に、4人も5人もリリーフ陣を揃えながら、先発投手たちの記録表である投手成績欄に、阪神投手達の名前が一人も載っていなかったという歴史的な異常事態をファン達の前に晒し続けていた。この変則用兵は、やがて、JFKの故障へと繋がっていった。ウィリアムズは日本を去り、久保田は一年を棒に振って、今年ようやく復帰できるかの大事な年を迎えざるを得なくなった。
              私が、監督と二人のコーチの更迭を必要と考えたのは、あまりにも当然なことである。
              あるいは、久保コーチについて言えば、頑迷な岡田監督の下で、建設的な提言ができなかったのかもしれない。とすれば、今年こそは、久保コーチにとって、コーチ生命をかける最も重要な年となるだろう。


              昨年1122日に私は次のことを記述した。

              以下のリンクを参照

2010年ペナントレースの観戦ポイント (2)阪神タイガース」

 

戦力分析の三つの要素、そのうち(1)先発投手陣については、阪神がやや勝る、(3)それ以外の戦力(リリーフ陣、打撃陣、その他)は巨人が大きく勝る、(2)監督については、殆ど五分五分と考えた。つまり、現役時代の真弓明信選手は、右バッターでありながら首位打者にも輝き、長打力、走力も兼ね備え、守備はショート・ストップ、センター・フィールドという、キャッチャー・ポジションから走るセンターラインをいずれもこなすことのできた才能の持ち主である。一方、原辰徳選手は、打撃三部門の中では評価の低い打点王を一度獲得しただけの、いわば平凡な中心選手に過ぎなかった。もちろん、選手時代の記録や実績が、監督としての能力に直接結びつくものでないことは、多くの監督達の足跡を確かめれば明白である。しかし、真弓氏の監督としての能力は、彼の、選手としての優れた多様性の中に認めることは容易である。一方、原監督は、あの「マスコミに甘やかされ続けた世代」に属するが、彼の第一期監督時代、その後の解説者時代を通して、謙虚で、旺盛な学習心が、昨年われわれが目にした近代化したジャイアンツを創り上げていった。この実績から考えれば、才人・真弓監督と学習者・原監督の差は殆ど無いと考える。

(3)先発投手陣の戦力以外の全ての戦力について。打撃陣では城島、マートンの優れた能力の加入があった。また、リリーフ陣では、ようやく藤川の鋭い切れ味が甦ったように見える。約2年に渡る酷使で失った「鋭利な刃物のようなストレート」を完全に取り戻すことができるだろうか? それこそ開幕しなければわからない彼の完全復活は、阪神ファンとしては、心から願う他はないだろう。いずれにせよ、この項目における巨人の優位は依然として大きく、私の見解は変わらない。だが、(1)先発投手陣の戦力、においては、阪神が「やや勝る」から「大きく勝る」に変貌していった。そうであれば、(1)における阪神優位、(3)における巨人優位、この優位性の差の大きさが同じとなったので、阪神が巨人に勝つ可能性がはるかに大きくなった、というのが昨今の私の見解である。

(2)

さて、阪神ファンの皆様。おそらく反対意見もあると思うが、とにかく私の言うことに耳を傾けて下さい。今や阪神タイガースは12球団随一の人気チームです。これは、おそらく10年以上前から続いていると思います。とすれば、日本一の人気球団として、更に、やがては戦力においても1、2を争うチームになる希望もこめて、そろそろ王者の持つ品位を考えてみるべき時期ではないでしょうか。私は、何も難しいことを言っているのではありません。これから私が提案する変更は、いとも容易いことなのです。それは、相手方投手の降板時に行われる行事、つまり、揶揄、嘲笑とも言える「蛍の光」の合唱をやめて欲しいということです。 

              私の友人の、ある阪神ファンは、この数年、野球場には行っていないことを告げています。彼は次のように言うのです。
              ・・・・・・マウンドを下りてベンチに帰る相手のピッチャーを多少なりとも思いやる気持ちがあるせいか、あるいは、この曲自体が持っている雰囲気のせいか、とにかく合唱する人々は、殆ど無表情で、淡々と歌い続けているのです。しかし、一生懸命に。この無表情の懸命さに、私は、何となく、背筋が寒くなるのを覚えてきました。もちろん怪奇映画を観るような、ぞっと来る寒気ではありません。違和感の広がりが、いつか寒気に変わっていくという感じでした。

日本では「蛍の光」で知られている、このスコットランド民謡が、ゲームの相手への嘲笑に用いられていると知ったら、彼の地の人々はきっと不愉快な思いをするに違いありません。これは、相手を大声で野次ることよりもはるかに品位を下げる行為なのです。
       この曲は、誰もが知るように、学業を終わって巣立つ人々、あるいは、映画「Waterloo Bridge(邦題・哀愁)」で用いられたように、旅立つ嬉しさ、あるいは別れの哀しさ、を美しく彩る旋律と和音なのです。

私がイギリスに住んでいた頃の話です。TVのあるスポーツ番組にモーツァルトの旋律が流れました。モーツァルト愛好家なら誰もが馴染んでいる「ピアノ協奏曲23番・イ長調」の第二楽章でした。だが、ブラウン管が映し出す映像は、泥だらけになって、跳びはねたり、転がったりしているサッカー選手達の姿でした。イングランド・プレミアリーグのさまざまなユニフォーム。これは「ゴールキーパー特集」の場面でした。ボールというボールが、ゴールキーパーの必死の形相を尻目に、次から次へとネットにとび込んでいきました。
    ご存知のように、ペナルティ・キックの際、ゴールキーパーがボールを捕獲する成功率は30%あれば上々と言われています。野球では3割バッターになりますか。だが、野球のバッターが、10回のうち7回を凡打で倒れても、惨めには見えないでしょう。それに対して、ゴールキーパーの悲惨な姿は、時として目を覆いたくなるほどでした。そして、彼等の姿に重なるモーツァルトの美しいメロディー。しかし、このピアノの独奏で始まる「ピアノ・コンチェルト イ長調、第二楽章」が重ねていくゴールキーパー達の姿に、私達は「悲哀」ばかりではない、決して降伏しないという「気高さ」も感じ取っていくのでした。

それぞれのピアノ曲に、それぞれの思い入れがこめられているように、このイ長調(in A major)という調性(tonality)に、モーツァルトは、また独特の思い入れをこめていたに違いありません。第一楽章で、管弦楽とピアノが同一主題を奏し、この曲の密度を高めているが、第二楽章に至って、ピアノ独奏は悲しみを帯びた短調に転じています。だが、ここでの珍しい嬰へ短調(in F sharp minor)は、実は「平行調」への単純な転入なのです。この単純な転入によって、第一楽章に繋がりながらも、しかも「明」から「哀しみ」へと変わる・・・・・・、モーツァルトの天才を、ここにも人々は見るのです。

そこで一つの提案。
     たまたま、私がクラシック音楽ファンであり、また気ちがいじみたサポーター達に囲まれているイングランド・サッカーの世界に、珠玉のような旋律が舞い降りる素晴らしさに感動した経験から、モーツァルトの同じ「イ長調によるピアノ協奏曲12番」。この第二楽章です。この曲では、第2楽章は、イ長調からニ長調に転じ、先記の例のような短調に伴う悲哀感はありません。
     しかし、この世に美しい曲は無数にあります。クラシック音楽ばかりではありません。私が提案する内容は、ざっと次のようなことです。

各イニングの攻守交代時に、敵も味方もない、
同じ美しい音楽が流れ、それに耳を傾ける、あるいは音楽
に興味の無い人は、隣の人と語り合う、そういうハーモニ
ー空間を創ってはいかがでしょうか? 音楽は、毎月、
変わる。1シーズンをとおして6曲になりますが、これも
選択に困るほどのことはないでしょう。たとえば、
サイモン
とガーファンクルの「
The Bridge Over Troubled Water(明日
に架ける橋)」、ブライアン・フェリーの
Don’t stop the
Dance
」等々。毎年、6曲を選ぶために素敵な曲は星の数
ほどあります。

   そしてアンパイアが発する「プレイボール」より少し
前、「六甲おろし」を皆で合唱する。

              いかがですか? 球団のかたも、応援されるかたも、どうかご一考願いたいところです。

 

 

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